2011年9月13日火曜日

第五章 絆

第五章:絆

一つ一つ、
一人一人、
一個一個、
一杯一杯、
悲しく辛い思いが立ち込める被災地を、
小さな手で、
大きな機械で、
笑顔が見たくて
一人一人がミッションに向きあったこの半年。
今もなお活動が続いている事は解っている。



僕もみんなもこの6ヶ月、
被災地では本当に沢山の涙が流れました。
もう流れ過ぎて止まりませんでした。
でも思う。
本当は思う。
ボランティアも被災者もなかったんだって。



僕はそう感じている。
今『生きる』ことへのミッションが、
この地に生きている全てのモノ・人・場所・動物・木々や草花etc
へ注がれますようにと、
小さな作業をコツコツとするボランティアも、
家のドロを額に汗をかきながらドロ出しに没頭する住民も、
現地に足を運び現地で必要としているコトをつなぐ為、ネットワークをつないで現地に注ぎ込んでくれている人も、
有名無名のボランティアも現地の人々とも・・・
本気で復興活動をしているって。




悲しく辛い思いが立ち込める被災地。

失ったモノから発信されているものは、
けして平成や昭和、明治の時代に作り上げた、
人の暮らしの富を取り戻すだけのことではないのだと。

その先に見えている、
優しさに似た“つつましくイトオシイ”暮らし。

被災地から離れ、
今津軽海峡を渡りました。

今秋色に染まる屈斜路湖・釧路川の畔で、
次男坊と手をつなぎながら夕暮れの散歩道を歩けている事が、
とっても嬉しい僕でした。
見過ごせない気持ちが何処から来たのかなぁ、そんなコト思いました。

今何を見てますか。
未来を、自分を信じて動いていますか。

2011年9月12日月曜日

2011年9月12日までの、がってんレポート

~9月12日レポート

台風12号の影響で被災した現地、
南紀に向けて9月6日に石巻より機材を積み込み向かいました。
通信状況が悪いのと、ワイファイを持っていないことが重なり、
なかなかレポートがアップできませんでした。

小さな集落には身を寄せ合うように数件の家がならんでいます。
集落は山のちょっとしたスペースにそこかしこの山の斜面に点在しています。
点在する集落の生活道路を分断するように崩れた山の崩落、
点在する集落を土砂と共に水の壁が駆け抜けました。

(津波が駆け抜けたかのようです)


人々はヘリコプターにて救出されたとのことですが、
生活道路が土砂で埋まっているので、
小さな集落までは今でも行くことが出来ません。

(9/10に開通したばかりの集落。人々はまだ戻ってきていません)

(山が崩れ学校が埋まっている)


小さな集落ゆえ、地元の人々は共に助け合いながら家財道具出しや、
ドロ出しを30℃を越す気温の中で一生懸命やっています。
私たちもまた、家の人と地域の人と一緒に1軒づつお手伝いをさせていただいております。


那智勝浦の山手の地域全体で300世帯とも400世帯とも言われています。
ボランティアが足らないゆえ、ボランティアが関われた世帯でも1日に2件ほどしか進みません。

(突然の雨が、作業をストップさせます。雨が降ると河川が近いのでとても緊張します)

(地元の自治会の若き役員?せいやさんを中心に集落の復興作業を共に進めている私たち)

(押し流された家が川の淀みに貯まっています。レスキューチームが必死に捜索しています)


今はとにかく生活の場所を確保していく事が大切だと感じます。
一人でも多くのボランティアが現地に入り、現地の地元の人と共に汗を流して瓦礫を取り除いて欲しいと思います。
南紀の人は自分たちで何とか復興しようと一生懸命です。


南紀に暮らす人々の笑顔が見られる日まで続くボランティア活動です。

2011年9月11日日曜日

2011年9月11日 がってんレポート

とても暑い日が続いている中での復興作業が続いています。
暮らしの場になだれ込んで来た土砂や瓦礫は果てしない量です。
山間部のため道が狭いコト、
道が限られているコト、
この二つは復興作業の進行を遅らせている部分があります。

もう一つ復興作業を遅らせている原因と言えば、
現地で共に汗を流すボランティアがほとんど居ないと言う事です。
もしかしたら、
テレビで報道されていないからですか?
ツイッターでつぶやかれて居ないからですか?
想像してみてください。
山が水と共に怒濤の様に雪崩込んで来たことを。
多くの谷は、20メーター以上の高さの水が集落の中を走り過ぎたこと。





2011年9月10日土曜日

2011年9月10日 がってんレポート


いよいよ本格的な作業開始です。


生活道路がまだ開いていません。重機ボランティアの登場です。


気温が30どを超え、玉のような汗が滴ります。暑く燃える男達なのです。


串本町長(田嶋勝正さん)が、
なっなっ!んと、自ら、地域住民と絆が共同で使える自転車を届けてくれました。最高です!赤シャツの燃える男は、暑き男でした。
ありがとうございます。



【わっか・sanaeより】
報道量も減り、なかなか現地の様子が伝わってきませんが、まだまだ「復興」には遠き道のりです。
川の流れが変わってしまい、民家のすぐそばを川が流れているとのこと、二次災害も心配です。。
(2011年9月10日 21:50)

2011年9月8日木曜日

2011年9月8日(木)






【わっか・sanaeより】
文章は無く、写真だけが送られてきました。変わり果てた熊野川のほとり。
まだまだ連絡の取れない地区が多くあるようです。どうか皆さんご無事でありますように。 
(2011年9月8日 17:10)

2011年9月6日火曜日

2011年9月6日 がってんレポート


9月6日レポート

風は強いものの、遠くまで晴れわたり青空です。
今僕は、仙台港より和歌山方面へ向けてフェリーに乗りました。
熊野は僕の心の古里です。
毎年のようにカヌーを積んで暮らすように旅をしている所です。

名古屋の友、
和歌山の友、
が動き始めています。
瓦礫撤去の機材を車に積めるだけ積み込みました。
友のもとへ届けます。
そして、出来ることをやって来ます。

がってん


2011年9月5日月曜日

2011年9月5日 がってんレポート

9月5日レポート

小さな港に暮らしていた家族は、
津波の後に大きな街へ被災者として引っ越ていた。

子供たち夫婦が言ったそうです。
『もう一度、あそこで暮らす』

この6ヶ月大きな街で暮らしてみて、
生き方として、
生き様として、
何処か何か違かったのかも知れません。

『もう一回津波が来たらめげるかもな、その時は都会で暮らすさぁ』

都会が安全なのか、
都会は安心できる暮らしがあるのか。
僕も北海道の原野暮らしが長くなったせいかあまり都会の事は解りません。

9世帯が暮らすこの小さな港まちに、
一世帯、また一世帯と戻って来ているそうです。

戻る意志にあわせるように、
必要な世帯数の仮設住宅が急ピッチで建ち始めて居ました。


もしかしたら今までも各ご家庭でも作っていたのかも知れません。
小さな畑が一つまた一つとボランティアの手で作られています。



この畑は、今までと違う新しい暮らしの楽しみになったらいいなぁと、
僕は思います。


『生き方を決めたときに、新しい種を撒く』
そんなお手伝いが出来る事は、とても嬉しいです。



※この作業を、僕に声をかけてくれた『黒さん』。子供たちも居ることを知っていて公園も作ってくれていました。


僕は思います。
都会での災害復興作業では中々見る事がないだろうと思います。
ボランティアが畑を準備する姿は・・・


(写真:大地が沈んで居るので、夕方になると直ぐそばまで海が来ます)

打ちのめされる程の出来事に出会い、
新しい一歩を踏み出す時、

皆さんでしたらどんなコト
『助けて欲しいですか』


※熊野地方、大丈夫でしょうか、心配です。

2011年9月4日日曜日

2011年9月4日 がってんレポート

9月4日レポート

台風の影響でしょうか。
それとも僕が北海道から来たから感じるのでしょうか。
じめっととした暖かい風が吹いている石巻です。


片付けられて行く街の中で、
忘れられたように残されている感じの品々が僕の目によく留まった一日でした。


もうじきあの日から6ヶ月。

周りがきれいになって行く中で、
忘れられたよな品々は、
出口が見えない、
何処か疲れているようで、
寂しげで、
苦しげな風景を作り出しているように感じました。



苦しげに見えてしまう風景の中には、
地域に暮らす人々もボランティアもまた、
見えない出口を探しているように感じました。



この桜の花は、、
たとえ9月日差しの中でも、
『咲ける、と信じた時に咲けば良い』と、
言っているように感じました。

忘れてませんか、
自分を信じることを

2011年9月3日土曜日

2011年9月3日 がってんレポート

9月3日レポート

台風が北上する中の南下でした。
予定していた船は出ずでしたが、
日本海廻りの船が出港とのコトでしたので乗船できました。
そこそこ揺れましたが寝れましたので問題無しでした。

ちょこちょこ立ち寄りながらでしたので、
夕方近くになってやっと石巻に着きました。

台風の影響でしょうか、
時より雨が強く降ったり風が強かったりですが、
車の中から見た街並みは、
街だなぁと感じる風景でした。

原野暮らしの私からはたまに買出しに出かける大きな街に見えました。

今後の打ち合わせをしたり、
作業の方向をイメージしたりで今夜は過ぎそうです。



風と雨が明日は落ち着きますように。

2011年9月1日木曜日

2011年9月1日 がってんレポート

9月1日レポート

何万トン、何千万トンの作られたモノが、
自然の力によって砕き散った3月11日の出来事。


今だ散乱したままの瓦礫
積み上げられた瓦礫
黙々と人の手で片付けられた瓦礫

瓦礫=ドロにまみれた家の柱や素材・ドロにまみれた暮らしに纏わったであろうモノ・ドロにまみれた仕事の材料・錆びた車・壊れた道具・ドロにまみれたオモチャ・グチャグチャになった衣類etc・・・


2ヶ月ほど東北に入れませんでした。


この2ヶ月間、瓦礫が奪ったモノはなんだろう・・・って。
瓦礫のない原野暮らしの中で思い巡らしておりました。

ドロにまみれたモノ、グチャグチャになったモノ、錆びたモノ、壊れたモノ、
失ったそのモノを取り返すコトが、
錆びたモノ、壊れたモノ、グチャグチャになったモノを、手に入れ直すコトが、
復興なのか今の僕には解らない。


僕は見過ごせない想いがあるから、
再び津軽海峡を渡ります。

再びレポートを始めます。