2011年12月10日土曜日

2011年12月10日 がってんレポート

12月10日レポート

第六章:心


北海道を11月の下旬に出発したのですが、
その頃はまだ雪も少なかったのですが、
今ではしっかりと雪も積もり、
気温もしっかりと真冬なみになっており
本州帰りの僕の体には少し応えます。

あの大災害から9ヶ月、
北海道では目に見えて変わったことがあったと思えません。
しかし東北各地では今もなお災害が起した風景の中、
人々は一生懸命に、
時に無力感に襲われたり、
手をとりあって、
前に進んでおります。

今回は僕自身の暮らしと照らし合わせる事が多かったです。

自分自身が今までのような暮らしのシステムのまま進んでいいのでしょうか。
もしも同じ災害が私の暮らしの場に起こったときに、自分にとっての復興とは元の生活に戻れるコトを望むのだろうか・・・
そんなことを帰りのフェリーの中でうとうととしながら考えました。

東北の被災地もまた同じだと思います。

一人一人の復興とは、
けして元の暮らしに戻る事だけではなく、
地域のコミュニティーの再構築であったり、
新しい暮らしの場作りであったり、
今のニーズは目に見え難くいのだけれど、
純粋に『生きる』事へ真っ直ぐなことなんだと思いました。

自分に出来る事を後回しにしている時間は無い。
そうも思いました。

今、復興ボランティアとは心そのものなんだなぁと感じました。
一緒に笑い
一緒に汗をかき、
一緒に涙し、
一緒に知恵を出し合い、
一緒に・・・
そして心を一つにして。
言葉ではない繋がりの心を示すことなんだなと。

(こんなに壊れた建物でも直ぐに壊すことを考えず、どうしたら使えるように出来るか。
そして残す事が出来るかを地元の人と一緒に考えるボランティアです)

(考えるだけではなく、共に直していってます)


北海道で出来ること、
現地で出来ること、
これからも私の体を使ってやって行こうと新たに思いました。
前進あるのみです。


2011年12月9日金曜日

2011年12月9日 がってんレポート

12月9日レポート

今日再び海を渡って北の大地に戻らなければならない日になりました。
目に見える形の復興作業に参加することが少なくなかった僕。
けして、その様な汗をかく復興作業が無くなった訳では有りません。
瓦礫を取り除いたり、地域の人の笑顔が増えます様にと、公園を作ったり、いつまでも忘れられている入り江の中の瓦礫を取り除いたりと、まだまだやることは有ります。

目に見えぬコトへ携わる大切さを僕自身感じてしまったからかも知れません。

雪国に戻ったらこの辺のコト深く掘り下げて考えたいと思います。

僕たちは今、共に熱い気持ちを持って、
「焦らずに急がなくてはいけません」そう感じました。
開口健さんの言葉を思い出しました。
「ゆうゆうとして、急げ」
だったと思います。





2011年12月8日木曜日

2011年12月8日 がってんレポート

今日は雄鹿半島の小さな漁村で地域の方と一緒に、地域再生プロジェクトです。
地域再生って僕が言うのはおかしいですよね。夜通し教えて下さい。自然と向き合う生き方を。



2011年12月7日水曜日

2011年12月7日 がってんレポート

12月7日レポート

今日は石巻で活動する団体を対象にした、
災害ボランティアスキルアップ講習会、
『DRT2011in宮城県牡鹿半島』の講習の日です。

災害が発生した初動には特に有効な技術の数々です。
必要最小限の道具と被災現場に落ちている使えそうな品々を組み合わせます。
直接人を助ける
倒壊家屋への進路の確保と救出
避難路を確保する
避難所や非難家屋の安全と環境確保 などは、
ここ石巻の3月や4月初旬の頃はこのような作業の連続でした。



普段このような機械は工事現場などでしか見かけませんが、
初めて手にする女性も男性も真剣に向き合って取り扱を覚え、
トレーニングをしました。




この被災地でボランティア活動をしていると、
このような機械を扱う必要が身を持って判っているので真剣です。







地域でもしも災害が起こって地域の人たちしか居ない場合は、
ここまでの機械を用意しなくても、
『車のジャッキ・かけや・ロープ・ノコギリやチャンソー』を用意しておくと、
とても有効です。

このような機械を使うのは特に災害が発生した初動の1~3ヶ月間が特に多く使います。
僕も初動ではほとんどこような機械をフルに使っていました。


とても高価な機械ですが、
次の災害に備えこのような機械を用意できたらいいなと感じました。

この日本に暮らすと言うことは、
常に『自然災害と向き合って暮らす』
事だと言うことを、
けして忘れてはいけないのかも知れません。

何故ならば、
自然は常に動いているからです。
自然の力には人は叶わないからです。

2011年12月5日月曜日

2011年12月5日 がってんレポート

12月5日レポート

昨夜は地元方々と全国いろいろなところから来たボランティアと沢山の想いを語り合いました。

金山町のこと、放射能のこと、避難生活のこと、移住のこと、原発内での作業のこと、内部被爆のこと、子供のこと、家族のこと、地域のこと・・・etc



今回のプロジェクトで『見たこと、聞いたこと、感じたこと』をメモしたいと思います。

◎私も含め子供二人ともホールボディーカウンターで内部被曝の状況を測定したら、既に内部被曝していました。
◎暮らしの場は家の中でも2~3マイクロシーベルトです。私たちもしかしたら麻痺してしまっているのかも・・・
◎家の庭は90マイクロシーベルト?あります。必死です。除染に庭の土剥ぎの連続です。30まで下がりました。でもなかなかそれ以上下がらない・・・
◎何度も何度も移住を考えました。でも、手に職も無いし、夫婦間で意見の食い違いが出て、まだ吹っ切れない・・・
◎子供が小学校に上がるタイミングで引っ越したい、でも福島から離れられない。
◎震災から数週間、水も電気も食べ物も何も無かった。原発が爆発したことも当時は知らなかった。今思えば子供と何度も水汲みに行ったり、食べ物を別けてもらうためにならんでいたあの時がもっとも酷く被爆したかもしれない。川の水も汲んで使っていたし。もう一体どうしたら・・・
◎原発の中で作業しています。誰かがやらないといけないのです。私は妻も子供も津波で失いました。
私は今、私の出来る事を必死でやっています。
◎私は25歳、知らずに暮らしていた数週間?家周りは80マイクロシーベルトだった。慌てて実家に戻ったのだけれど、計ってみたら、0.5~0.6です。最近友だちとよく話す事があります。『もう私たちは子供生むことが出来ないね』・・・

この4日間に交わしあった言葉の端々ですが、
少しだけここに記しておきます。

『もう私たちは子供生むことが出来ないね』・・・25歳の女性の声が今も耳に残ってます。
私たちは今一体何処へ向かっているのでしょう。

2011年12月4日日曜日

2011年12月4日 がってんレポート

12月4日レポート

今日も福島県金山町は雨が降った止んだりしながら寒い一日でした。
朝から古い木造校舎の廊下では、子供たちが行ったり来たり“おおはしゃぎ”。

給食室からは“ゆげき”が立ち上り、
遅くまで語り合ったお母さんたちはちょっとユラユラとした朝を迎えました。



今日は2泊3日の最終日。
僕の知らない世界がここにありました。

この数ヶ月ヘドロや瓦礫と向き合っていました。
その作業を通して人とも向き合っていました。

助けられ上手ではない東北の人々が多いので、
言葉は少なかった気がするのですが、
感じるままにそっと提案をしながら、
ヘドロを取り除き瓦礫を外していました。

あの日から9ヶ月近い月日が流れました。
目に見える支援から、
共に感じ繋がる支援がとても大切だと、
僕は感じました。



明日再び石巻に戻ります。

そうそう子供たちと、
ちょっと早いけれどステキなクリスマスの時を過ごせました。

2011年12月3日土曜日

2011年12月3日 がってんレポート

12月3日レポート

今日は寒い雨が降ったり止んだりしていて、
予定していたブナの森の散策は残念でしたが中止となりましたが、
次は絶対に行こうねって言うことになり、
次回の楽しみが増えました。

その他のプログラムはワイワイと楽しむことが出来ました。
蕎麦作りに笹巻き作り、とっても上手に出来たもんねっ!





とっても楽しかったんだけれど僕はとても複雑な気持ちでした。
きっとみんなも同じ気持ちだと思います。

この複雑な気持ちは『放射能』の影響から来ています。

知ってはいたのですが、
放射能の物質は目に見えませんでした。
匂いもしませんでした。
冷たくも暖かくもなく、目に見える風景はなんら変わりません。

唯一手元の数量計の数字と音が上下し、
放射能物質の存在を教えてくれます。
数量計と言う機械だけが危険の変化を教えてくれています。

これからほぼ永遠に近い長い年月の間、
数量計が全ての日常生活の中で、
放射能物質の危険を知らせ変化の状況を伝えている暮らし。

寝てるとき
ご飯を食べてるとき
友だちと遊ぶのも
恋をするのも
家族と居る時間のときも
全ての時間の中で全てを蝕んでいく。

僕たちは今、
こんな状況の地球の上で生きる物語の中に身を置いている事は確かです。

(僕だってどんぐりを拾う事をしたいんだ。)

(柔らかい日差しの下でお母さんに抱かれて寝ることが出来る幸せ)



柔らかい日差しの下で、
お母さんに抱かれて眠る幸せを奪ったのは誰ですか。
土の上を裸足で駆け回る時を奪ったのは誰ですか。

『放射能があるから外で遊べない』と、
幼稚園児教えられて、
僕は今とても心が痛くて苦しくて。

ずるずると書きそうなので今日はこれで書くのをやめます。

今からお母さんと沢山お話をして子供たちと沢山遊びます。

そしてまた少し時間を置いてから書きます。

2011年12月2日金曜日

2011年12月2日 がってんレポート

12月2日レポート

『第三回:ふくしま子ども元気村』プロジェクトがいよいよ始まります。

朝から準備をしました。
1歳から9歳までの子供たちが来ます。


まだ早いのだけれどクリスマス模様で行きましょうと言うことで、
いろいろデコレーションをして行きます。

なかなかオシャレの発想に切り替われない僕は、
『レスキューツリー』に出かけクリスマスツリーの準備です。
スコップを持ってナタを持ってのこぎりを持って川っぷちの土手へGOです。

『レスキューツリー』とは、
川ぷっちの護岸の場所や駐車場、
側溝などに着陸した木の実が時の流れの中で無事に成長したのだけれど、
側溝掃除やら護岸工事などの人的な事業とか、
成長過程で育ち難いと思われる環境下の木々をレスキューして植え替えるコトを、
僕はこの数十年間のライフワークとしています。

今回はクリスマスツリーに成りそうなコニファー系の木を探しに行きました。
この里の町はとてもきれいに整備されていて、
なかなかレスキュー対象の木が見つから無かったのですが、
橋の下付近にツリーがありました。

これからきっと子供たちがきれいにクリスマスツリーにデコレーションしてくれることと思います。

最後の日にはこの木を校庭にみんなで埋めようと思っています。
この3日間はこの木を囲んで気持ちの良い時間を過ごせたらと思っています。

(子供たちへのプレゼントを包んでいます)


今日本に、
そして地球の中に暮らす全てのみんなと同じに、
ここに集うみんなにも多くの物語の中に生きています。

悲しみ、喜び、癒し、寂しさ、悔しさ、辛さ、笑い、語らい・・・
共に今と言う物語の流れの中で、
進むしかどうやらない気がします。
そう感じます。

地球と言う大河が汚れに失われてた星々に想いをよせて、
新しい流れを大河を泳ぎたいです。

2011年12月1日木曜日

2011年12月1日 がってんレポート

12月1日レポート

石巻を朝出発して夕方に、
福島県金山町に到着しました。

金山町は奥会津の新潟県との県境にある山間の小さな町です。

何処か懐かしく感じる木造校舎を利用させていただきながら、
金山町の地元の方々と共に、『ふくしま子ども元気村』プロジェクトをこの週末に開催するために、
石巻のボランティアと共にやってきました。


『ふくしま子ども元気村』プロジェクトとは、
福島県内で放射線の影響が強いエーリアに身を置き、
なかなか重苦しい生活を送る形になっていると聞きます。
県内でも比較的放射能の影響が低い金山町で、
子供たちが思う存分に外や体育館で遊べたり、
美しい福島の山里の暮らしを満喫できる、
週末いきぬきツアーと思っていただいてもいいかも知れません。

目に見えず、匂いも、温度も無い放射能。
崩壊しつつある原子力発電所から放出された放射線が、
人々の暮らしに重く暗い影を落としている事は紛れの無い事実です。

いつの頃からなのでしょうか。

何処で履き違えたのでしょうか富と豊かさを・・・

明日の夜には、20名以上の親子の楽しげな声がこの美しい里に聞こえること思います。

2011年11月30日水曜日

2011年11月30日 がってんレポート

11月30日レポート

今日は朝から『チェーンソー等を使っての塩害樹木の伐採講習』を、
DRT-JAPANhttp://blog.canpan.info/coco/archive/2237が開催してくれました。


塩害と言っても津波の波がかぶり立ち枯れた木々です。
この広い東北の沿岸の植林地はきっと何処も同じなのでしょうね。

初めてチェンソーを持つ女子も男子もおじさんも、
皆真剣に木々と向き合った1日でした。



日本の多くの水害は、
戦後に植えた植林地の影響が大きいだそうです。

僕も和歌山の水害で目の当たりにしたのですが、
手入れが放棄されたような状態の植林の木々は根の張りも弱いのか、
根ごと流され橋に引っかかり流れをせき止める状態になっていました。

せき止められた流れは暴れ市街地に流れこんで、
被害をさらに大きくしていたように感じます。

水が引いた後も、
2次災害を引き起こすケースもあるので早く木々を取り除かないといけません。

塩害の植林地で実践の講習は、
多くの事を考えさせられました。

自然災害の多くは人災多いのかも知れません。

暮らし・仕事・生活だけを優先にしていたりしませんか。
今やっているコトは、未来に繋がりますか。

2011年11月29日火曜日

2011年11月29日 がってんレポート

11月29日レポート

石巻に着きました。
とてもきれいな夕日の下のベンチでパソコンを打ってます。
北海道から来ると暖かいですね。

どの位大地が沈下したのでしょうか。
震災前は見えていた
石巻由来の「巻き石」が北上川の水面の下で見え隠れしています。

建設車両がしきりに行き来しています。
不通だった橋も今は通れるようになっていますし、
津波で倒壊した建物も徐々に取り除かれ更地になって来ています。

忙しそうに歩く人や自転車が走っており、
大きな街である雰囲気が出ています。

午後に石巻に入ったので、
役所で車両の手続きをしたり、
避難所だった学校をいくつか廻りました。
避難所は閉鎖しているのは知ってはいるのですが、
誰か知っている人歩いて居ないかなって思ったからです。



誰も居ない学校と言う名の避難所は静かに閉ざされていました。
避難所の周りにあった家はまだあの時のまま・・・
壊すのを待っているのか、
それとも再びこれから直して暮らすのかは解らないのですが、
どちらにしても、
この住宅地には人影も無く静かに静まりかえったあの時のままです。



復興住宅が出来ていない今、
仮設住宅に居るのだろうなぁ
市内にある仮設住宅に引っ越したんだろうなきっと・・・

明日は早いです。
牡鹿半島の塩害にあった木々を手入れをしに行って来ます。

2011年11月27日日曜日

2011年11月27日 がってんレポート

11月27日レポート

あの日のままの靴があった・・・(だらしない)
あの日の靴の汚れを落とし、
明日、再び3月11日に涙の流れた地に向かいます。



沢山の方々にご寄付をいただいたり、
物資を提供してくれたりしたおかげで、
こうやって私は何度も被災地に足を運ぶ事が出来ます。
私フットワーク軽い方ですが、
皆さまのご支援があってこそだと言うことを忘れていません。

(3/15の雪の中での活動を思いだします)

着替えを少々と寝袋、
食料も水もテントも積みこんだ。

内地に滞在中何処で何かが起こっても、
対応できるように、
チェンソーも積み込んだし、
発電機も丸のノコ、バールに鏨、
そしてワイヤーやら、混合オイル・・・etc。
必要な機材を積み込みました。

家を出てから30時間程の移動だけれど、
再び現地へ行ってきます。

枯れてしまうほどの涙の先に、
笑顔が見たいから。

2011年9月13日火曜日

第五章 絆

第五章:絆

一つ一つ、
一人一人、
一個一個、
一杯一杯、
悲しく辛い思いが立ち込める被災地を、
小さな手で、
大きな機械で、
笑顔が見たくて
一人一人がミッションに向きあったこの半年。
今もなお活動が続いている事は解っている。



僕もみんなもこの6ヶ月、
被災地では本当に沢山の涙が流れました。
もう流れ過ぎて止まりませんでした。
でも思う。
本当は思う。
ボランティアも被災者もなかったんだって。



僕はそう感じている。
今『生きる』ことへのミッションが、
この地に生きている全てのモノ・人・場所・動物・木々や草花etc
へ注がれますようにと、
小さな作業をコツコツとするボランティアも、
家のドロを額に汗をかきながらドロ出しに没頭する住民も、
現地に足を運び現地で必要としているコトをつなぐ為、ネットワークをつないで現地に注ぎ込んでくれている人も、
有名無名のボランティアも現地の人々とも・・・
本気で復興活動をしているって。




悲しく辛い思いが立ち込める被災地。

失ったモノから発信されているものは、
けして平成や昭和、明治の時代に作り上げた、
人の暮らしの富を取り戻すだけのことではないのだと。

その先に見えている、
優しさに似た“つつましくイトオシイ”暮らし。

被災地から離れ、
今津軽海峡を渡りました。

今秋色に染まる屈斜路湖・釧路川の畔で、
次男坊と手をつなぎながら夕暮れの散歩道を歩けている事が、
とっても嬉しい僕でした。
見過ごせない気持ちが何処から来たのかなぁ、そんなコト思いました。

今何を見てますか。
未来を、自分を信じて動いていますか。

2011年9月12日月曜日

2011年9月12日までの、がってんレポート

~9月12日レポート

台風12号の影響で被災した現地、
南紀に向けて9月6日に石巻より機材を積み込み向かいました。
通信状況が悪いのと、ワイファイを持っていないことが重なり、
なかなかレポートがアップできませんでした。

小さな集落には身を寄せ合うように数件の家がならんでいます。
集落は山のちょっとしたスペースにそこかしこの山の斜面に点在しています。
点在する集落の生活道路を分断するように崩れた山の崩落、
点在する集落を土砂と共に水の壁が駆け抜けました。

(津波が駆け抜けたかのようです)


人々はヘリコプターにて救出されたとのことですが、
生活道路が土砂で埋まっているので、
小さな集落までは今でも行くことが出来ません。

(9/10に開通したばかりの集落。人々はまだ戻ってきていません)

(山が崩れ学校が埋まっている)


小さな集落ゆえ、地元の人々は共に助け合いながら家財道具出しや、
ドロ出しを30℃を越す気温の中で一生懸命やっています。
私たちもまた、家の人と地域の人と一緒に1軒づつお手伝いをさせていただいております。


那智勝浦の山手の地域全体で300世帯とも400世帯とも言われています。
ボランティアが足らないゆえ、ボランティアが関われた世帯でも1日に2件ほどしか進みません。

(突然の雨が、作業をストップさせます。雨が降ると河川が近いのでとても緊張します)

(地元の自治会の若き役員?せいやさんを中心に集落の復興作業を共に進めている私たち)

(押し流された家が川の淀みに貯まっています。レスキューチームが必死に捜索しています)


今はとにかく生活の場所を確保していく事が大切だと感じます。
一人でも多くのボランティアが現地に入り、現地の地元の人と共に汗を流して瓦礫を取り除いて欲しいと思います。
南紀の人は自分たちで何とか復興しようと一生懸命です。


南紀に暮らす人々の笑顔が見られる日まで続くボランティア活動です。