2011年3月31日木曜日

2011年3月27~31日 がってんレポート

3月27日~31日
27日
ぴりりと寒さの残る屈斜路・釧路川畔に帰宅しました。
現地に出向いたボランティアが地元に戻った時に一番感じるのが、
コンビニに物がある事ではないでしょうか。
私もそう思いました。

28日
大型のホームセンターに出向き、
お掃除機材の買出しです。
デッキブラシ・床用トンボ・モップ・ゴム手袋・台所用品・スコップ・ベビーバス・大工道具など、
ショッピングカート5台分調達できました。
その他、長靴20足分の梱包。
エンジンポンプ・発電機が容量の使いすぎで壊れている事が判明。
こんな時に・・・

29日
農業用タンクの加工と調整のし終わった機材の積み込みと、
台所用品の追加の買出し。
北海道が用意して下さっている住宅や宿泊施設借り上げの情報のやり取りなどで、
あっと言う間に1日が過ぎ去って行きました。
次男坊が『俺も手伝いに連れて行け。とーちと一緒にやるよ』と言ってくれるが、
とーち一人で十分だ。1000人分の力でやっからよっ、と、煙に巻いた父親。ありがとう

30日
◆心強い親方の声。室内の泥だしに必要な機材などが寄贈されるかもしれない。
ありがたい。

◆次男の通うおひさま保育園の父母が呼びかけてくれる。『被災地の子供たちのために・・・』
『ぐぐっ』と来ました。渡して参ります。ありがとう。

◆北海道、道庁も動き出す模様。心強いです。

31日
日の出と共に出動!再び石巻を目指します。


<写真:頼もしい応援団!ありがとう。>

2011年3月26日土曜日

2011年3月26日 津軽海峡をわたるフェリーの中から

3月26日

あの日から2週間の時が流れました。
今僕は日本海を北に向けて北上しております。
いったん石巻から離れます。

石巻市街地から1時間も離れると、
車窓に見える風景は何処か懐かしささえあります。
家が壊れていません。
信号が点いています。
品物はほとんどないのですがコンビニに明かりが点いています。
トイレがあるし、トイレの水も流れています。
こんな世界があったのですねと思ってしまいます。

『子供が泣くので避難所では迷惑をかけてしまう』と言い、
1階が津波で壊れかろうじて残った電気も水も無い2階の部屋で残った家族で、
耐えるように暮らす家族。
空き地に車を停めて車で生活する家族など避難所から離れて身を寄せ合う人々には、
今だ食料が届いておりません。
ひっそりと耐えるように生きぬく人々の数は把握しきれていません。

余震のたびに子供が怯え、泣いてしまうと母さんが言っています。
きっと思い出すのでしょう。
壁のように高く盛り上がった海水が、
家を飲み込み車をを飲み込み次々と流されていく中、
傾きかかった家の窓枠に必死になってお母さんと共にしがみつき、
『放したらダメ、放したらダメ』と流れに飲み込まれそうになる中で、
お母さんと共に必死に耐えた事を。
引かぬ水の中、板につかまりお母さんと共に高い建物の屋根に向って必死に泳いだそうです。


僕はいったん北海道に戻ります。
北海道で出来ること
現地で出来ること
あります。
現地での活動【第一章:風の活動】から、
北海道での活動第二章が始まります。

また、こんな私の勝手な行動のボランティアを、
沢山の方が支援してくださってありがとうございます。

物資と言う形で支援してくださいました皆様ありがとうございます。
小さな集落・街で孤立した状態であった方々・道で力尽きて座り込んでいた人など、
今につまずいた状態にあった人に手渡せたと思います。

お金と言う形で支援くださいました方々ありがとうございます。
海を渡る費用、車の燃料費、10日ぶりに入ったお風呂の費用、
薬品などの追加資材を買う費用、
財産の一切を流されて買う事の出来なくなった人への嗜好品を買う費用、
などとして使わせていただいております。

皆さまの心使い本当に感謝しております。
私の体を通して、
出会った被災者の方々への生きる力の応援に変わったのではと思っております。

今回の災害は本当にいきの長い復興となる事でしょう。
私もまた第一章風のような活動から第二章へと映ります。
第二章から第三章、第三章から第四章と状況に合せて私も関わり続けようと決心しました。
小さな支援隊『わっか』ではありますが、
今後も暖かく身守ってください。

ありがとうございます。
津軽海峡を渡るフェリーの中から。

<写真:この子供たちの笑顔、絶やさぬよう>

2011年3月25日金曜日

2011年3月25日 がってんレポート

3月25日

写真は撮れませんでした。

体育館は生活物資や炊き出しで使える状態ではなく、
思い立った先生が壊れた職員室を片付けている。
『小さくてもいい。子供たちの卒業式をやって上げたい』
その思いで被災者でもある先生方が職員室の泥出しに汗を流す。
僕はそっと炊き出しのご飯を手渡す事しか出来なかった・・・

おじいさんが孫を背負って、
両手に大きな荷物を風呂敷にいっぱい持って歩く。
『母親がまだ見つかっていない。今はオラとばあさんがしっかりしなくては・・・』
僕は風呂敷を持ってあげることしか出来なかった。

大きな自然の前には、
ひと一人ができる事はあまりにも小さくて弱い。
だからこそ、
だからこそ、
共に前に歩きたい。
生きるときめたなら。

2011年3月24日木曜日

2011年3月24日 がってんレポート

二人は働き者です。
3月24日

晩のうちにうっすらと雪の降ったようで、
肌寒い朝を迎えました。
今日は一日中余震がありました。
そして今日も大きな鍋の周りには、
笑顔を涙が交差する一日でした。

大きな鍋を囲んで、被災者・ボランティアに加え自衛隊も共に調理です。
ちびっ子たちは、一生懸命ダシに袋を開ける係りと遊び係。
今日はお母さんに加えお父さんの顔もちらほら。
僕たちはと言うと少しばかり手馴れた感じでやらせていただき、朗らかと。
そして自衛隊はご飯を炊いてくれています。
失礼を承知で言いますと自衛隊が笑顔でご飯を炊いたり調理していると、
何だか見ていて面白いです。

『春になったら学校は始まるのかなぁ・・・』と少し子供が心配していました。
悲しみを共に励まし合うお母さんたちの声がそばで聞こえます。
職場を失ったおとうさんが『タバコを1本もらえないか』と、タバコに火を点け空を眺めながら共に一服しました。


<写真:災害から2週間近くたっても変わらぬ街の風景>

あの日の地震と津波で破壊されたままの風景がいたるところにあります。
ガレキを超え風呂敷を担ぎ、
サイレンは鳴り響き、
母は子の手をひき、
『生きる』ことへ一歩づつ歩む姿に、
何も言えなくなる自分がいます。

それでも私は、災害地へボランティアへやってきました。

重い荷物を手に持つお年寄りの荷物を『持ちます』と声をかけます。
倒れた人が居れば、声をかけ担ぎ上げ運びます。
何日も食してない人には、食料を運びます。


<写真:郵便屋さんもがんばっています>

いつでも何処でも出来ることしか出来ない自分が、
今日は少しつらく思いました。


今回この災害地にこさせていただいて一番感じた事を率直に書きます。
『人間が何年もかけて一生懸命作っても、
自然の前では一瞬で壊れてしまう』

:メモ:
明日いったん石巻を離れ北海道に戻ります。

2011年3月23日水曜日

2011年3月23日 がってんレポート

3月23日

今朝はいつもより少しはやめの出動です。

大きな鍋の回りは日に日に楽しくなってきました。
ちびっ子たちが袋を開けてくれます。
妹の手を引いたお兄ちゃんも、妹も。
『俺はちびっ子じゃない』と言い張る5年生も、3年生の女の子も。

お母さんの出番は頼もしいです。
味付けを注意してくれました。

大きなおじさんは、ファミリーレストランの料理長だそうです。
大きなしゃもじの手返しはさすがです。

おじいさんも見に来ます。
気になっているようですね。
孫を背中にしょって、ゆ~さ~ゆ~さ~嬉しそうです。

大きな鍋は温かいです。
いっぱいの笑顔に鍋が囲まれると、
やっぱり信じられます。
必ず立ち直ると。

石巻市だけでも避難所に暮らす人は20,000人を超えます。
被災地の数を考えると何倍何十倍の避難所暮らしが続いています。
少しでも穏やかな時を過ごすことが出来るように、
これからはさらに多くの皆さんの手が必要です。

私、あなた、きみ、僕、多くの手が必要だと感じます。

2011年3月22日火曜日

2011年3月22日 がってんレポート

3月22日
朝から日差しはとても穏やかでした。

一日一日と復興に向っている場面と、
一日一日と飢えと疲れで埋もれて行く場面もあり、
背中合わせの災害地です。

泥に埋もれた室内にわずかに作ったスペースに、
疲れをとれる望みを託し横になる姿に、
このままでは行けないと言う思いが私たちを動かします。

校長先生が涙を流して言いました。

『3日ほどお休みをいただいてしまいました。
すいませでした。
この状況で学校を空けるのはダメだと解っております。
しかし、しかし、家族が津波で行方不明の状態が続いておりました。
変わり果てた姿で発見していただきました。
葬式など出来る状態ではない事は解っています。
しかし真似事でもいい。手を合せてあげたかった。
葬儀の真似事だけでもしてあげたかった・・・』

私は今までに経験したことのない事実に向き合っているように思います。
今まで世の中で常識と思っていた事は通用せず、
感じるまま、思うまま、信じるまま、自分の感覚だけが頼りです。

損とはなんですか
得とはなんですか

都合とはなんですか
忙しい事とは誰のためですか

無関心となんですか

私たちは今、手を差し伸べる事が出来るはずです。
感じるままに信じるままに。

2011年3月22日(火)

石巻市・湊小学校のガッテンより
「元気うどんの開店は12時からです。2000人分はいけそう!」 (10:40am)



2011年3月21日月曜日

2011年3月21日 がってんレポート

3月21日
今日は大きな鍋を持って学校の体育館で炊き出しのお手伝いを少ししました。
『元気鍋』と名付けていただきました。




跳び箱を台にしてテーブルを作り、
空いた八ポースティロールの箱をバット代わりに使い、
ブロックで囲んだバーナー台を作ってキッチンの出来上がりです。
大根を切ってニンジンをトントントンと切っていると、
いつの間にかお母さんたちが集まってきてくださいまして、
みんなでトントントントンと野菜を切って行きます。


いつの間にやら、
『こうしましょう、これの方が良いわよ』
の、楽しいお料理教室です。
『石巻のトン汁はこうよ』
『スイトンにしましょう』
とても、とてもいい時間です。

震災と津波から11日が立ちました。
あの日から止まっていた時間が、
少しずつ少しずつ動き始めたように感じます。

水運びをお手伝いさせていただいたおばあちゃんが言っていました。

『仕事のトラックも家も何もかも失いました。今はみんなに借りて生きさせてもらってます。
はやく元気になって、みんなにお返しをしなければならないから、“めそめそ”なんかしていられない』

2011年3月20日日曜日

2011年3月20日 がってんレポート

3月20日
水が引かない市街地石巻で朝を向えました。
この町もまた、津波と地震で変わり果てた町並みになっています。

昨夜から全国の災害ボランティアの仲間と合流しました。
50人ぐらいでしょうか。
石巻はとても大きな街です。
人も沢山暮らしています。
被災した方々もとても多く4万人をはるかに超えています。
街にはハンバーガーショップもカフェも、
ファミリーレストランも軒を連ねています。
もちろん大型のスーパーも沢山有ります。
とても見慣れた町並のはずですが、
全てのハンバーガーショップもカフェも、
ファミリーレストランもスーパーも営業はしておりません。
コンビニもです。
信号も点いていないところが多いです。
家に暮らす人もガソリンが無いので買い物に行く事が出来ません。
物を買いたくても買えない、
食べ物を買い物をして食べることが出来ない暮らしが普通に存在しています。

今日の僕たちは半島方面にある小さな集落を廻りました。
小さな集落の人々は、
お寺さんや小さな小学校で避難をしていることが多いです。
壊れた家屋の柱を燃やし暖をとり湯を沸かし。
今日の沢からの水汲みの担当を決め、
女の子とお母さんが沢で洗濯をし、
魚を開いて干物を作り、
掃除をする人、小さな子どもの世話をする人、
使える物を拾ってきて必要な物を作る人、
壊れた機械を直している人、
こんな時に不謹慎と思われるでしょうが、
私の望んでいる暮らしの原点が今ここに沢山あるのだなぁと感じました。
あれやこれやと議論や講釈をたれるのではなく、
誰がやるのだやらないのだと言うことではなく、
『生き抜く』事を決めるとは本当にこのようなことなのだなと感じました。

少し残念なことは、多くの道具を失ったことです。
ノコギリやチェンソーがありません。
斧がありません。
鍋や包丁が少しばかりたりていません。
薪ストーブがありません。

なので今日は薪ストーブを避難所に設置しに行きました。
嬉しかったです。
お母さんたちがとても喜んでくれました。
ガス台が一つだけだったので、
50人前のご飯を作るのが少しバタバタしていたそうです。
これでお味噌汁は薪ストーブの上で作れます。

街の状況を少し記載しますね。

津波の影響なのかも知れませんが、
今日まで廻らせていただいた地域よりも、
町の中は泥でいっぱな気がします。
環境を整備する必要がありそうです。
少し知恵を絞って環境整備を手がける事も必要なので、
ドラム缶の焚き火で暖をとるおとうさん方を考えてみます。

<写真上:水が引かない市街地>
<写真下:薪ストーブ設置中>


【sanaeより】
レポートのアップが遅れて皆さまにご心配おかけしました。全国から集まった災害ボランティアの仲間の中には、神戸の震災の時に共に『神戸元気村』で活動した仲間たちが大勢います。

2011年3月19日土曜日

2011年3月19日 がってんレポート


3月19日
川原で迎えた今朝は、
カヌーで旅をする川旅の朝のような気さえしました。

私たちは今日も朝日と共に大槌町へと向いました。

二人の男の子が枯れ木の下から見つけたサッカーボールで嬉しそうに遊んでいます。
『ガレキの中から見つけたんだよ』
山が険しく広場がありません。
学校も校庭も皆が非難所として使っているので、
復旧作業のために通行止めになった道は彼らの唯一の遊び場です。
一人また一人とボールを追いかけています。
『僕はバスケが好きだからバスケットボールが欲しいなぁ』
『俺はグローブとボール』
『私、縄跳び!』
小さな子も少し大きな子も、
今日をめいいっぱい生きています。
キラキラした目で。

おじいさんと話しました。
遠洋漁業でニュージーランドに行ったことがあるそうです。
クライストチャーチも行ったらしいです。



日が高く上がる頃、
私たちは一つの決断をしました。
南に下ることにしました。
石巻を目指します。

このレポートがアップされるころには、
石巻に到着している頃です。

今日は少し急ぎめで向います。
すいません。



<写真上:宮古市の山奥にて。一番最後まで開かなかった集落>
<写真下:陸前高田にて>

【sanaeより】
今日もガッテンからレポートが届きました。石巻には無事に到着しています。後から大槌町へと入る予定になっている友人に、子ども達のためのボールやグローブを頼んだと言っていました。

2011年3月18日金曜日

2011年3月18日 がってんレポート

3月18日
とても冷えた朝をむかえました。
今日は震災から1週間がたちました。

大槌町は庁舎も壊れ車も燃料も無いと
昨晩ニュースを聞きました。
私たちはほとんどの物資を皆さんに手渡しましたので、
車両の中に沢山のスペースが出来ました。
車も燃料も無いので、せっかく支援物資が届いている備蓄所から、
支援物資を届けられない状況である大槌町へ向うことに決めました。

日の出頃大槌町に到着し、
道を聞いた人がお寺さんの方でした。
このお寺さんにも80名近くの人が非難しているそうです。
小さな子どもたちを集めて一人のお姉さんが行き止まりの道で遊んでいます。
水の入ったポリタンを一輪車に積んで運んでいるおじいさんがいます。
小学校の避難所には自治会長でしょうか。
年配の方たちが陣頭指揮をとっています。
私たちは申し出ました。
『車と燃料を持ってます。何処にでも行きますので言ってください』
3名の年配の方を乗せて、
大槌町の配給品を一手に扱う場所へと向います。
市街地は橋が落ちているので遠巻きで向います。
山に差し掛かると数台の車が立ち往生しています。
路面が完全に凍結し横向きになって車が坂を落ちてきます。
警察の車も自衛隊もみな落ちてきます。
みんなで一台また一台と車を押したりひっぱたりしながらどかします。
私たちは行く手を諦めましたが、
それでも生きるために車を進める人を止めることは出来ませんでした。
古里古里の集落でおばちゃんを下ろし、
小学校にておじさん2人を下ろし、
道が解凍し次第また戻る事を伝え、
私たちは一路、釜石へと向います。
釜石は今まで私たちがお手伝いさせていただいた街より大きいいです。

なんとボランティアセンターが立ち上がっていました。
荷物の運び出しや避難所などでのケアーなどいろいろやる事が多そうです。
徐々に各地域でボランティアセンターが立ち上がりつつあるようです。
人は足りていません。各地の社会福祉協議会や災害対策関係に問い合わせてみてください。

釜石で地図をやっと手に入れることが出来ました。
再び大槌町に戻る最中に、
小さな子の手をつないだ家族が、
ペットボトルや一升瓶抱えて水を運んでいるところに出くわしました。
ポリタンに入った水があったので、
全て家族に上げました。
これでペットボトルや一升瓶、ビニール袋で運ばなくてよくなると、
涙を流していました。

大槌町の小学校に戻り、
おじさんを乗せて解凍された山道の先の物資センターへ向います。
小学校には灯油がまったく無くて今夜の暖房がないといっています。
物資センターの備蓄にあるので運搬してもらうように頼みに行くのです。
おじさんは疲れた声で言いました。
みな一週間の避難生活に疲れが出ていると、
生きるためにはしょうがない・・・
私も家内が流されてしまった。
家も会社も家族も全てを・・・
道はわかるので少しの間でも寝てください伝えると、
ありがとう、と。

とても今を生きる意味を教わった一日でした。

私たち二人はとても小さなチームで動いています。
小さなチームでも出来ることを見つけて少しでもお力になれるようにと思っています。
そんな事を確認できる川原は好きです。
今日は安らぐ川原で寝ます。


【sanaeより】
今日もガッテンからレポートが届きました。相変わらず誤字脱字が多いのですが、そのまま全文を掲載しています。文中に古里古里とあるのは、吉里吉里のことだと思います。皆さんからガッテンの残りの燃料を心配する声をたくさん頂いていますが、大丈夫とのことでした。超エコドライブで、過去最高の燃費効率だそうです。ありがとう!

2011年3月18日(金)



今日は宮古を離れ、大槌町と釜石市の間を往復しながら物資を運んでいます。
町長が津波で行方不明になっている大槌町では、支援物資を保管しているセンターが山の上にあり、そこへ通じる道路が凍っていてなかなか登れない。つるつる滑って上から車が落ちてくるような状況なので、暖かくなるまで解凍待ち。
待っている時間を利用して約70km離れた釜石へ。
これからしばらくは、大槌町と釜石市を行ったり来たりになるだろう。
電波状況はかなり悪い。ほとんど繋がらない。町も、アンテナも、全て流されている。
(12:45pm)

2011年3月17日木曜日

2011年3月15日~17日 がってんレポート

3/15
11:35 函館発
15:25 青森着
※函館発青森行きの連絡線は、2~3時間に1本1日中出ているので使える。

青森の港から120キロ離れて南郷町カッコウの森と言う道の駅まで移動。
青森市内のGSのほとんどは売切状態で、
長蛇列をなしている唯一開いているGSもガソリンの在庫がほとんど無い模様。
GSを除けば、見た目は不通の町並みで、
無邪気な女子高生が楽しそうに笑いながらおしゃべりしている、何処にでもある風景。

道中のジャスコに立ち寄ってのだけれど、
意外なほど商品が無い。
穀類や豆腐、納豆などのある棚は軒並み空っぽ。
もちろん鮮魚もお肉も零食も・・・
あと1日2日持つかもたなか。
津波の被害の無かった青森市だけれど、
函館とは大違いにビックリ。
もっと北からも食材や燃料日用品などの物資を供給できるはずと感じた。
今後は函館からボランティアが入れるようになるといいなぁ。

明日は真冬なみの寒さと雪にさいなまれる模様。

いよいよ太平洋側へ出てみようと思っている。

3月16日
今日は青森を朝6時に出発し、
葛巻村を経由した辺りから一段と雪が強くなってきましたが、
岩手の宮古市を目指して進んでいきました。
いくつかの道は土砂等で通行止めで引き返しながらでしが、
宮古市には無事に13:30に到着しました。
合同庁舎に行きご挨拶がてら非難状況などの情報を集め、
市役所に向いました。
市役所は海のそばにあり、
1階の全てを破壊されて機能低下に落ちていました。
住民課は流され全てを失い、
市民課に行き避難所や物資の配布表を見せてもらいました。
とてもとても一生懸命皆さんがんばっていて、
助けたいと言う気持ちがさらに強くなりました。
道の開いたばかりの避難所の学校へ物資を持って行こうと出発したのですが、
リアス式海岸のため集落から集落の移動は遠く道狭いです。
近くまで行ったのですが、
崩れた家を重機が引っ張っている最中でたどり着きませんでした。
自衛隊の調査部隊の人と少し話しました。
自衛隊も道がわからず苦労しているみたいです。
時より大きな余震が来ます。
そんな時海辺を通行していると、
少しはらはらしますが、
みなが一生懸命、捜索と復興へ向けて活動している姿を見ると、
反対に勇気を貰います。

3月17日
今朝は格段と寒さがましておりました。
寒いと目覚めが早いもので、
6時には寝床を出発できました。
昨日たどり着かなかったエーリアに向います。
ここ三陸はリアス式の海岸ですので、
山を越えた入り江の先に集落といった具合です。
道は除雪が入れる燃料も、重機もなく、雪を漕いで集落に向いました。

小さな集落にたどり着くと、
みなが一丸となって倒壊した家から1つまた一つと、
思い出の品や残っている灯油缶をガレキの下から取り出しています。

『支援物資を投下したら直ぐに手伝おう』
後ろ髪を引かれる思いで、
2つあるうちの1つの小さな避難所へと向いました。
小さな子どもを持つお母さんやおばあちゃんがいます。
『何か足らないものありませんか』と声をかけました。

足らない物がいっぱいあるのでしょう。
しかし『ここだけではもらえない、苦しいのは皆一緒だから・・・』
困りました。
私もお母さんもおばあちゃんも・・・
必要だと言うことは解っているのです。

小さな集落をまとめる団長さんと出会えました。
団長さんに必要な物を渡しても言いかと確認のお話をさせてもらいました。

団長さんは全てわかっていました。
私たちの思いもお母さんやおばあちゃんの思いも。
わかった上で、
物資を預からせてくれと、
深々と頭を下げられ、
小さく『本当にありがとう』と・・・

解りますわかります。

物資を団長さんに預け、
先ほど目にした家屋からの物だしを手伝いに直ぐに向かいました。
家屋の片付けは家一件分の瓦礫一本一本てで取り除きます。
まだ見つかっていない人もいるそうです。
集落そうで一丸となって一軒ずつ片付けます。
とても笑顔です。
なぜだか優しいです・・・
なぜでしょうか・・・涙が出てきます。

軽トラが横を通り過ぎました。
団長さんと一緒にいた人です。
私たちが預けた物資を積んでありました。
小さな避難所へ向けて走り去って行きました。

午後の日差しの中集落を後にし、
山越えをしようと車を走り出させると、
皆が『ありがとう、ホントにありがとう』と見送ってくださいました。
団長さんにご挨拶をし、
まだ物資がありますと言うと、
『自分たちは小さな集落で、
親戚縁者が多いので助け合えるから大丈夫です。
隣の集落の方が酷いからそこへ行ってあげて欲しい』と言いました。
震災から6日目で開通した小さな集落は、
私たちにとても多くの事を感じさせてくださいました。

行って見ると隣の集落は大きくて、
避難所も沢山有ります。
国道沿いなので大きな避難所にはそれなりに物資が来ている感じがしました。
しかしよくよく話を聞いて見ると、
学校のような大きな避難所には物資が入っているが、
民家の離れや倉庫などに非難している人には、
まったく物資が届いてないそうです。
指定された避難所は行政も把握し物資を渡しているが、
指定されていないところは把握し切れていないようです。
また、そのようなところに非難している人は、
大きな避難所の物資を貰いに行くのは遠慮しているみたいです。
小さな避難先を探し出し1つ1つ廻る事にしました。
1つ目の小さな避難先を見つけました。
立ち寄ると中から沢山の人が出てきて車を取り囲み、
一斉に車から物資を持ち出しました。
追い込まれている様子でした。
悲しくてほとんど全てを上げました。

夜も更けて雪も強くなってきたので、
今日も自転車置き場で休むことにします。

明日もがんばります。

【sanaeより】
携帯電話をPCにつなげて、ようやくネット接続が可能な環境になりました。3日分のレポートが送られてきましたので、載せますね。凍える中、パソコンに向って打ってくれたので、誤字脱字が多いです。でも、そのまま、載せました。

2011年3月17日(木)




今日も、崩れた家の撤去作業や、中のものを取り出す作業をしました。支援物資はほとんどを、ここ宮古市で降ろしました。
何をするにも、圧倒的に、人手が足りない。(16:00pm)

2011年3月16日水曜日

2011年3月16日(水)

朝、青森を出発。
これから岩手の海岸線の町を目指します。
現地の状況は本当にひどい。
携帯電話がほとんどつながらない。
また電波をつかまえて連絡します。

(3月16日10:00am)





宮古に到着。これから物資を下ろします。がんばれ、岩手! (13:15pm)







雪が降っています。宮古市の町の多くは津波の影響が凄いです。家の中に泥が入りこんでいます。近々宮古市の社会福祉協議会でボランティアを募集するみたいです。やる事はいっぱい!問い合わせてみてください。(18:35pm)


【sanaeより】
本日の報告はここまでです。ガッテンは現在、JR山田線の「花原市駅」線路脇にテント泊です。

なお、宮古市のボランティア募集ですが、宮古市としてもボランティアの受入をするのは初めての経験であり、試行錯誤しながらの活動となることが予想されます。いろいろとイメージした上で、お手伝いできそうな方はぜひ、と思います。連絡先をここに載せることはしませんので、各自で調べてよろしくお願い致します。

2011年3月15日火曜日

2011年3月15日(火)

本日、昼前の函館発フェリーにて青森入り。
県内は、食料品などは全く売っておらず、大型スーパーも商品が無く、もう明日は開店できないくらいの商品量。気温は-1℃、雪も降っていて、寒さに慣れていない人には辛い気象条件。
今晩は、青森県内の「道の駅南郷」近辺に泊まり、明日岩手方面に向う予定ですが、原発のこともありますので、状況を見ながら決めていきます。

【sanaeより】 
ネットにつなぐことが出来ないとのことで、電話で聞き取りした内容を転記しました。また情報が入りましたら更新いたします。

なお被災地入りにあたり、当然のことではありますが、自分たちが動くために必要な燃料・食料・水などは相当量を持参しております。

2011年3月14日月曜日

2011年3月14日(月)

東北へ向けて。
本日、ガッテン&リョータは被災地へ向けて出発しました。

出発にあたり、多くの方から励ましや心配の声を頂きました。支援物資を持ってきてくださった方もたくさんいらっしゃいました。本当にありがとうございます。




今後につきましては、
3月15日(火) AM11:35 函館発フェリーにて青森へ向う
という予定でおりますが、
運航状況や被災地の状況により変わる場合があります。
また随時お知らせしていきますので、どうぞよろしくお願い致します。